【昔語り12】パーソナルロボット TOPOの話(その3)
動作テストです。マニュアルによるとDEMOがあるようなので、それを実行しました。喋りが主体なので音を出して観てください。
ようやく動いたか〜という感じです。あまり走行しないのがつまらないですが、走るデモもありました。ジョイスティックでリモコン操縦しています。
修復作業としてはこれにて一件落着。次回はTOPOという商品について考えます。
懐かしいアキバ系のモノたちが21世紀によみがえる??
動作テストです。マニュアルによるとDEMOがあるようなので、それを実行しました。喋りが主体なので音を出して観てください。
ようやく動いたか〜という感じです。あまり走行しないのがつまらないですが、走るデモもありました。ジョイスティックでリモコン操縦しています。
修復作業としてはこれにて一件落着。次回はTOPOという商品について考えます。
修復作業開始です。まずはバッテリーを入れますが、そのためにはほとんど分解しなくてはいけません。左の写真が分解したコンポーネントを動作するよう接続した様子、右が秋月で購入したバッテリーの搭載です。このバッテリーが前後に1個ずつ入ります。また、駆動輪を浮かせてテストできるようウマも作りました。シャーシ下の木製の台がそれです。
ここで現状の確認です。本体のボタン操作と通信の状態を確認します。これですんなり動けばいうことないんですが・・・結果は「駆動系OK」「音声NG全く喋らない」「通信NG全く通信できていない」ということで・・・長丁場を覚悟しました。
通信ができてないとソフト起動時にこんなエラーメッセージがでちゃいます。
捨てる神あれば拾う神あり。ネット上でTOPOの回路図を見つけました。手書き修正の入ったプリプロ版のようです。また全ての回路図があるわけでもないようですがそれでもありがたい。他にもいろいろ書類がアーカイブされてて興味深いサイトです。
回路図があるとはいえ修理は大変でした。事細かに書いても退屈なだけなので、結果だけを。
まず18V電源のタンタルコンデンサがショートしおり、レギュレータが発熱してサーマルシャットダウン状態。18Vから作っている-5Vがでてないのでスピーチモジュールが動かないことが判明。喋らないのはこのせいです。
さらに、赤外線パルスをレベル変換してマイコンに入力するコンパレータが故障、接続されてるマイコンの入力ポートも故障ということで、これが通信できない原因のようです。
入手容易な部品なのでマイコン(8031)含め新品に交換しました。それぞれの回路は電気的に関係がありますが、実際にどうやって壊れたかはわかりません。タンタルコンデンサは、電解のように経年で液漏れしないので、いっときよく使われましたが、過電圧や逆電圧に弱くショートする方向に壊れやすいという厄介さも。おそらく何らかの理由で過電圧か逆電圧がかかり、それが元で連鎖的に壊れたのではないかと思います。ここは深く追求しないことにしました。もちろんタンタルは止めて普通の電解コンに差し替えました。
ここまでくれば動きそうということで、メイン基板だけをバラックに組んでスピーチのテストを。下の写真の奥の方に展開してるのがメイン基板と通信基板です。手前の六角形の装置がApple IIに接続された赤外線通信機です。
動画はApple IIeの画面です。通信ができているので、スタートアップメッセージの次の行にOKと出ています。OKが返ってきた時には泣きそうになりました(笑)。いままでエラーメッセージしか見たことがなかったですから。動画ではTOPOの声が聞こえます。この時点で作業を始めてから1ヶ月が過ぎてました。
いよいよ次回、動作テストです。
パソコンブーム華やかなりし80年代、鳴り物入りで登場した「パーソナルロボット」がありました。
アメリカAndrobot社が1983年に「世界で初めてのパーソナルロボット」として発表したのがTOPOという子供サイズのロボットでした。写真はTOPOのキービジュアルです。スターウォーズのドロイドをイメージさせますね。
TOPOが「鳴り物入り」だったのは、Androbotのファウンダーが、ATARIを成功させたノーラン・ブッシュネルさんだったからです。ゲームに続いてロボットでも一山当てるのでは、ということでしょう。僕のいたエンターティンメント系の会社にも、国内販売の打診があったのを記憶しています。もっとも、大方の期待は空振りで、数年で事業を畳むことになります。TOPOの詳しい情報は、このサイトでみることができます。
さて、当時は縁のなかったTOPOですが、十数年前にヤフオクで手に入れることができました。TOPO IとTOPO IIIです。これは入手当時の写真です。
左がTOPO I、本体だけです。これはただのラジコン走行で、Apple IIに接続した送信機でBASICから動かすことができたようです。
そして右がTOPO III、最終販売モデル、パソコンと双方向の赤外線通信でつながるリモートブレインタイプです。これにはマニュアルからI/Fまで動作に必要なものは全て揃っていて、譲っていただいた方によると「長いこと動かしてないが動くはず」という状態でした。この時、手持ちのApple IIcでいろいろと試してみたのですがどうしてもダメ、対応にIIcは入ってないのでそのせいかなという感じでお蔵入りになりました。
それから十余年、ヤフオクでApple IIe(写真左)の状態のいいセットを見つけたので、思い切って修復作業を再開することに。
ディスクドライブにシリアルカード、ジョイスティックと必要なものは揃っている上に、電源のコンデンサ交換済みと信頼性も担保されてます。TOPO SOFTの対応機種にはしっかりIIeが入ってます。これなら動きそう。
修復作業を始めたのは2023年1月早々でした。続きは次の投稿で。
1970年代に入ったばかりの頃、気になる製作記事に出会いました。泉弘志さんの「図解エレクトロニクス製作集」に掲載なったものです。
真空管の特性を活かした静電気メーターです。興味を持ったのは、真空管式なのに電池で動作しているところです。真空管は電灯線、と、いう固定概念をもっていたので、この電池で動くサブミニ管なるものを是非手に入れてみたい、と思いました。とはいえ、記事にもあるように電池管はその当時でも「昔なつかしい」もので、簡単に手に入りそうになく、また、他にサブミニ管を使った製作記事もなかったので、熱はすぐに冷めてしまいました。
再び電池管に出会ったのは十数年後の1980年代中頃のことです。当時住んでいた国分寺の骨董店で古い真空管ポータブルラジオを衝動買いしてしまいました。
このセットの電池管はサブミニ管ではなく普通のMT管で、AC-DCの2ウェイで電池駆動も可能なタイプでした。ACで良く鳴りますが、やはり、電池でも鳴らしてみたいわけです。ヒーター用A電池は単一なので問題ないとしても、問題はB電池、BL-145という67.5Vの積層電池が必要、聞いたこともない型番です。とりあえず、ダメ元でアキバで探してみることにしました。
当時、ラジオ会館の向かいからガード下に入る路地の入り口付近に、充電池などの特殊な電池を扱っている店がありました。シーズンになると、クリスマス電球をずらりと並べるような何でも屋で、残念ながら店名は覚えていません。そこをのぞいてみると、なんと、さまざまなB電池が普通に置いてあるではありませんか。お目当てのBL-145は2000円くらいだったかな、結構いい値段でしたが即購入しました。
念願の電池動作というわけですが、鳴らしてみれば普通のラジオで(当たり前ですが)とくに感慨もなく、それ以降、B電池を買うこともありませんでした。
それからさらに40年、再び電池管がマイブームになるのですが、それはまた別の投稿で。
アキバ昔語り:
1960年代中頃、当時小学生だった僕は「子供の科学」を毎月買ってもらってました。月1回、父親が仕事帰りに買ってきてくれるのが待ち遠しかったのを覚えています。読み始めたのは小学3年生の時、思えば、これがラジオ工作との出会いでした。
製作記事の中で特に気に入ったのが、軽妙な文体とわかりやすいイラストの1〜2石程度の簡単なラジオ製作記事でした。著者名には「泉弘志」とありましたが、なんと読むかはわかりませんでした。下の誠文堂新光社の「図解1−2石ラジオ製作集」の巻頭記事のスキャンデータをご覧になれば、これか、と思い出す人もいるのではないかと思います。
この記事は巻頭記事ということで特別に丁寧に書き下ろされたものだと思います。実際の部品を配線図と対比する形に並べたり、注釈にイラストを入れたりと初心者にわかりやすい内容になっているでしょう。また、記事の文体も柔らかく読みやすいですね。泉弘志さんの製作記事は、「子供の科学」「初歩のラジオ」「模型とラジオ(版元は科学教材社)」といった誠文堂新光社系の雑誌に載ってました。
当時は、文章を書いてるのが泉弘志さんで、イラストは別の人が描いてると思ってましたが、60年代末くらいから下記のようにクレジットされるようになり、イラストも泉さんということがハッキリしました。写真は1970年の「模型とラジオ」5月号からです。
手持ちの古本を確認したところ、この3冊が泉弘志さんの製作集でした。いずれも「初歩のラジオ」「子供の科学」に掲載された記事をまとめた本で、60年代末から70年代中頃に出版されたものです。
このように数多くの入門者向け記事を書かなければならないとすると、どうしても同じようなコンテンツが多くなってしまうのはやむを得ないでしょう。マンネリを打開するためか、泉弘志さんはいろいろな変わり種セットを考案しています。例えばラジオなら、マッチ箱に組む超小型もの、60年代に流行っていた様々な形のお菓子のプラケース(現在も「チョコベビー」は現役のようです)に組むもの、さらには上の写真にも写ってますがプロペラを選曲つまみにしたヒコーキ型までありました。いずれも少年の工作ゴコロをくすぐるものだったと思います。
その中でこれは、というのが「サンダーバード型 電子おやすみ器」です。これは1968年の「子供の科学」8月号に掲載されました。
当時人気だったイマイのミニ・サンダーバード2号のプラモデルの中にセットを組み込んでしまうというのは、僕にとっては、いろんな意味で衝撃的なアイデアでした。なんといっても当時はプラモデルだけで立派な遊び道具だったわけで、それを惜しげもなくキャビネットとして使うわけですから、大人の人の考え方はすごいなと変なところで感心したりしました。ちなみに「おやすみ器」というのはポツンポツンという雨垂れのような音を発生する機械で、寝付けないときにそれを聴いているうちに眠ってしまうというものです。実際に効くのかどうかは分かりません。
調べたところによると、泉弘志さんは終戦間もない1948年(昭和23年)、創刊したばかりの「初歩のラジオ」に執筆を始め、1999年の「子供の科学」をもって引退、その後2003年末に76歳で鬼籍に入られたとあります。まさにエレクトロニクス時代と共に生き、そして数多くの子供たちをエレクトロニクスの世界へ導いた「伝道師」といえるでしょう。
最後に、また古本の中から、1949年の「初歩のラジオ」8月号の記事(泉弘志さん19歳!)を紹介しましょう。当時の初ラは、写真の通り、小さく、紙質もよくありません。季節感あふれる表紙絵は、海洋船舶画の名手、飯塚羚児画伯です。
記事は入門者向け再生検波短波ラジオの作り方です。記事の最後にもありますが、この頃はまだ民放ラジオはなく、短波で聴く外国の放送を楽しんでいた人も多かったようです。面白いのはUY-76という三極管を2本使っているうち、1本をわざわざ二極接続としてB電源の整流用にしていることです。普通なれば12Fなどの整流管を使うところで、同号の他の製作記事ではみんな12Fです。これは、入手しやすいUY-76だけでセットを構成するためだったのではないでしょうか。UY-76は、旧日本軍の無線機に多用されていたので、戦後の一時期、新品も中古も安く流通していたという話をどこかで読んだことがあります。こういうところにも、泉弘志さんのラジオ初心者への配慮を感じます。(前年の10月号にも泉さんの記事はあったのですが、真空管回路の解説で、製作記事ではなかったので、こちらを紹介しておきます。)
タイトル左のイラストは、タッチが異なるので泉さんの筆になるものではないと思います。編集部が用意したカットでしょう。2枚目の写真の実体配線図を拡大すると、すでに泉さんのお茶目なセンスが発揮されていることがわかると思います。アンテナ線の先っぽに風船がついているのは、この投稿の最初に載せたpdfの4ページにもありますね。
アキバ昔語り。マイコン雑誌「I/O」の最終回です。
ミニコミ誌と聞いて、ああ懐かしいと思う人は、だいぶんお年を召されてるでしょうね。僕も同類です(笑)
70年代初頭、マスコミに相対する言葉として使われ始めた言葉、ある地域に関する話題を集めた発行物といったような位置付けだったと思います。当時僕は中学生、はっきりした記憶はないですが、ぺらぺらでイラストマップがあるもの、というような印象をもってました。イラストマップとは、この喫茶店はいごこちがいいとかいったプチ情報が、ポップなイラストの地図上に描き文字で記載された記事のことです。
こんなものがI/Oの名物記事にもありました。これも同じく1977年4月号からです。
当時の秋葉原でのマイコン関連ショップの地図です。これはこのような記事とセットになっていました。本文中の「信越電機商会」とは今の秋月の前身です。ねんのため。
月刊誌というのんびりした媒体でのお買い得情報がどれほど役に立ったかはわかりません。この記事を見て何かを買いに行った記憶もありません。ただ、地方在住の人にはアキバの空気が感じられる記事だったのではないでしょうか。
もう一つ、ミニコミ誌というより、ミニコミから生まれた商業誌ではおなじみの「はみだし投稿欄」です。紙面の端っこに読者からの短い投稿を載せるあれです。ぴあの「はみだし」といえば分かるかたも多いのでは。
翌年1978年あたりからI/Oにもこんな感じではみだしが載るようになりました。これは1978年11月号からです。
この号ではありませんが、このはみだしで、「中学で同級だった〇〇くん(僕の名前です)、Z80マイコンを作ったけど動かないので教えてもらえませんか?連絡をください」というような投稿を見つけてびっくりしたことがあります。1年間だけ通った東京の中学校の同級生、電話番号が書いてあった(当時はそんなのもありでした)のか、はたまた卒アルで調べたのか覚えていないですが、早速電話してみると、ロジックICを使ってロボットみたいなものを作ってたのを覚えていて、絶対マイコン青年(笑)になってるはず、ということで投稿したとのこと。まさが返事があるとは思ってなかったようで、向こうも驚いていました。三鷹台のアパートまで来てもらって、彼の作った最小構成のZ80マイコンボードを動くようにしました。
I/O黎明期の話はこれでおしまいです。MZ-80やPC-8001が発売になり、本格的なマイコンブームが起こる少し前のお話でした。
アキバ昔語り。今回はマイコン雑誌「I/O」の続きです。
前回紹介した1977年4月号の目次です。
アマチュアにとってマイコンは作る時代ですね。自作マイコンか各社から出ていたTK-80のような評価キットにVRAMを組み合わせ、当時ブームだったTVゲームをしたい、という気持ちが伝わってくるようです。
そのTVゲーム、目次に「GIのTVゲーム」とあるように、TVゲーム専用のチップがでていました。もちろん、まだインベーダーに侵略される前で、素朴なピンポンゲームとかの時代です。ゲームセンターにはブロック崩しや風船割りのような、明らかにコンピュータを使ったものもありましたが、家庭用はそのような専用チップを使っていました。
アキバではGIなどの専用チップを使った、ゲームキットも販売されていたのを覚えています。そういうチップは、トランジスタ数のかさむマイコン方式ではなく、専用回路で起こしたものだったようです。トランジスタ技術などでタイマーIC、NE555と若干のCMOSロジックを使ったTVに表示するオシロスコープの製作記事があったのを覚えています。そんなふうにアナログ/デジタル混在でTV画面上に線を引いたり、光点を動かしたりする回路を作り、それをIC化したものだと思います。
ミュージックシンセサイザの記事も初期のI/Oには多く掲載されました。ここでのシンセサイザは電圧でパラメータを制御できる発振器やフィルタ、アンプなどを組み合わせた「アナログ シンセサイザ」です。当時はシンセサイザといえば、普通の人は冨田勲さんのような多重録音やシーケンサを使った壮大なもの、先進的な人たちはクラフトワークとかのテクノポップという感じでした。YMOでテクノが一般化する前です。
これはその頃発売なったローランドのSYSTEM-100Mというモジュールタイプのシンセサイザです。80年代後半〜90年代くらいはブームの去った商品なので質流店あたりで中古を安く手に入れられたのですが、いまではずいぶん高値になってしまいました。そのころぼちぼちと揃えたものです。整備しながら遊んでますが、なかなか手がかかります。
I/O誌のシンセサイザ自体の製作記事というのはあまり記憶がなく、シンセサイザとマイコンをつないで自動演奏というのが多かったと思います。まだ「打ち込み」という言葉がない時代でした。(プロの音楽家の間では使われていたようですが)アナログシンセは自作するのも大変で、使い物になるレベルのものはなかなか作れませんでした。僕も1983年くらいに「ムーグのパチモン」のようなモジュールタイプのシンセを作ったことがありますが、VCOの調律に苦労した記憶があります。そういうわけか、これもだんだんAY3-8500というマイコンにつなげるPSGやFM音源などの記事にシフトしていきました。
今回はここまで、次回は「ミニコミ誌」としてのI/Oの話です。
アキバ昔語り。今回はマイコン雑誌「I/O」の話です。
僕がI/Oを初めて手にしたのは1977年の初夏だったと思います。商業誌として創刊したばかりの頃です。写真の1977年4月号はオークションで手に入れたもの。3月発売だから読んでないはずなんですが、見覚えのある記事もあるので、ひょっとするとバックナンバーを買っていたのかもしれません。
当時はマイコンブームの初めの頃で、大きな本屋だとこういう雑誌のバックナンバーを置いてるところもありました。薄っぺらで300円、分厚いトラ技が380円でしたから、高いなという印象でした。
ただそれまではトラ技だけが情報源だったので、当時8080のマイコンを自作しようとしてた僕にはありがたい雑誌でした。もっとも毎号買うというわけではなく、興味がある記事のあるときだけでしたが。
漫画風のイラストも特徴でした。何人かの方が描かれてるようでしたが、一番目立ってたのはコアラ(?)のDANくんでしたね。こんな感じで。
次回はI/Oの中味についてです。
アキバ昔語り
完成した0-V-2、色々いじっているとザーザーとかバリバリとかいうノイズが多いのに気づきました。結構なレベルなので入感の弱い局が受信できません。配線をいじったりアースの方法を変えたりいろいろやってみましたが、どうも受信機側の問題ではなさそうでした。また、バンド全体に被っているのではなく、特定の周波数で入ってくるため、発生源は外にある電子機器かなということで、写真のようにノイズフィルタいりのテーブルタップも試してみました。
しかし、これと言った変化はなく、それではということで、家の中の電気器具のコンセントをかたっぱしから引っこ抜く作戦に。見つかった犯人は写真のようなACアダプターでした。
これはラジオを設置した部屋のとなりのリビングのコンセント。特に上の秋月で買ったUSBタイプのACアダプタが短波帯にひどいノイズを撒き散らしていました。このノイズが電灯線を通って0-V-2に飛び込んで来てたわけです。もちろんこれは規格をとおった「ちゃんとした」アダプタです。
昔のACアダプタはトランスが入っていたからノイズを出すことはなかったのですが、最近のアダプタはスイッチング電源になっているので、どうしてもこうなるようです。これ以外にもノイズをだしているACアダプタはあるのでしょう。
もう一つのノイズ源は水道のスマートメーターのようです。ラジオバンドの上の方、1500KHzくらいから、パリパリというノイズが入ってきます。AC電源のラジオだけではなく、電池で動いてるトランジスタラジオにも入ります。トランジスタラジオを持ち歩いて発生源を探ったところ、なんと、玄関脇のメーターボックスから出ていました。結構強力だし、この周波数には当地民放ラジオがあり、いいんかいなこれでという気分ですが、スマートメーターのコンセントを引っこ抜くわけにもいかず、結局泣き寝入りということに。PLCでデータを送ってるらしくこれはやむを得ないようです。
また、うちは集合住宅なので、他の居室の影響も受けている疑いがあります。隣の家にコンセント引っこ抜いてというわけにもいかないですからね、
21世紀は素朴な真空管ラジオにとって「生きにくい」時代のようです。
アキバ昔語り
上京してアキバデビューしたのは1972年、もうその頃には科学教材社に興味はありませんでした。そのためアキバの傍にあるにも関わらず、若い頃は足が向くことはありませんでした。
ノスタルジーにひかれ、初めて訪問したのは1990年代でした。0-V-2を作ってみたい、コイルはまだ売ってるんだろうか、あわよくばキットが残ってるかもという気持ちで仕事の途中で立ち寄ることに。0-V-2を作りたいんだけど短波帯のコイルはないかと尋ねたところ、ないけれど自作するならボビンは同じだからこれを買って巻き直せと、売れ残りと思しきVHF帯のプラグインコイルを出してくれて、コイルデータの入った製作記事のコピーをもらいました。そのコピーは無くしてしまいましたが、おそらくこの記事のコピーです。ヤフオクで入手した誠文堂新光社の「初歩のアマチュア無線製作読本」の記事です。
その後仕事も忙しくなり、かなり長い間ほったらかしになっていた0-V-2製作、再スタートしたのはリタイア後、2020年の春先でした。
ヤフオクやアキバの(旧)内田ラジオあたりで、ぼちぼち集めていた真空管セット用の部品が役に立ちました。
コイルはその時買ったVHFコイルのまき直しではなく、ヤフオクで手に入れた新品プラグインボビンで、中波帯と短波帯5〜15MHzの2本を作りました。シャーシは並四用の穴あきシャーシの新品、他の部品もほとんど新品で調達したものです。並四トランスはガード下のトランス屋さんで、おそらく今でも新品が入手できると思います。並四用穴あきシャーシは1〜2年前まではヤフオクで売っているショップがあったのですが、いまはもうやっていないようです。シャーシパンチやハンドニブラを持ってるので、部品に合わせて一から穴あけも面白そうでしたが。
回路構成は製作記事の通り、CRの値は系列の問題と若干の調整で回路図と違うところもあります。また、6BM8の5極部のグリッド抵抗をボリュームにして音量調整もつけてあります。シンプルなACケーブルは、アキバの電線屋さんにいけばあるのはわかってたのですが、コロナなので買いに行くわけにもいかず、アマゾンで簡単に入手できるテーブルタップをちょん切ってます。
久しぶりの「半田付けを楽しむ」工作で大満足でした。製作当時のローカルラジオ局受信の様子です。
と、まあここまでは順調だったのですが、この先この素朴なラジオは21世紀の洗礼を受けることになります。